映画「沈黙―サイレンス―」鑑賞
2017年02月13日
マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の原作に出合ってから28年。
ようやく完成までこぎつけた映画 「沈黙―サイレンス―」を観てきました。
スコセッシ監督はシチリア移民の子としてニューヨークのリトル・イタリーで生まれ育ちました。
意外なことに監督は少年の頃、神父になりたかったそうです。
リトル・イタリーは敬虔なカトリック教徒の家庭が多く、しかし一歩街に出ればマフィアが牛耳る
という二面的なコミュニティでもありました。
そんな社会で育った監督の生涯のテーマが「信仰」と「暴力」であることは必然なのかもしれません。
私は今回、初めて原作も読んだのですが、映画は原作にかなり忠実なものでした。
オープニングに音楽はなく、映画はまさしく沈黙の中、幕を開けます。
本編でもほとんど音楽らしきものは耳に残りません。エンドロールにいたっては
風、雨、波、蝉、蛙、遠い雷鳴といった自然の音がごく控えめに流れるだけです。
私は監督のこの美意識に心から感動しました。このことは、原作に対する敬意だけでなく、
日本の風土や精神性に対して監督自身が深く理解しているからこそと思えたのです。
それもそのはず、スコセッシ監督は日本映画に対する造詣も深く、劇中、夜の海に
小舟で漕ぎ出すシーンは溝口健二監督の「雨月物語」をイメージして撮ったと公言しています。
一方、日本の俳優陣も頑張ってくれました。
特に笈田ヨシ、映画監督でもある塚本晋也、そして窪塚洋介が素晴らしいです。
中でも窪塚洋介演じるキチジローが、司祭の持つロザリオの珠の一粒が欲しくて
じっと見つめる時の目といったら!
また今作は本年度アカデミー賞撮影賞にノミネートされていますが、
それに大きく貢献したのは海の中で磔にされる「水磔」のシーンでしょう。
笈田ヨシと塚本晋也が実際に身の危険と闘いながらの撮影シーンでは、
現場のクルーたちやエキストラ、誰もが泣いたと言います。
そして物語の鍵を握るもう一人の人物が、元キリシタンでもあり、棄教させるため残酷な拷問を
自ら考えたと言われる井上筑後守。
イベントとしてクリスマスやハロウィン、バレンタインを祝い、チャペルもどきで結婚式を挙げる今の日本。彼なら一体どう皮肉ることでしょう。「仏教は正室、異教は側室」などという比喩でも司祭を
追い詰めたイノウエもお手上げかもしれません。
「沈黙―サイレンスー」は、神や信仰についてだけでなく、真理、そして人間の本質についても
次から次へと問いを投げかけてくる映画です。
今も劇中のさまざまなシーンが私の脳裏から離れることはありません。
イチゾウやモキチ、キチジローの顔、「パードレ」(司祭さま)と言ってすがる信徒たちの声が
消えないのです。そしてむしろ、あの映画の中の世界にまた戻りたくなるのです。
原作で、ロドリゴ司祭は日本に着いた当初、こう言っていました。
「人間には生まれながらに二種類の人間がいる。強い者と弱い者と」
強い者とは殉教者、弱い者とは棄教者のことでしょう。
しかし最後は、彼にこう言わせています。
「強い者も弱い者もいないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
強い者の意見だけがまかり通る今の世界に、静かに、重く、響いてくる言葉です。(H.S)