―前回のブログ 「福井で最初の海外留学生・日下部太郎」 から続きます。
グリフィスの元へ届いた手紙は福井藩からの招待でした。明治3年(1870年)グリフィスは日本へと旅立ちます。藩校 明道館は明新館と名前を変えていて、グリフィスはそこで指導をすることになりました。教える教科は、化学・物理・ドイツ語・フランス語など幅広いものでした。藩は当時まだ珍しかった化学実験所を建て、新しい教科書も作りました。福井藩が教育に力を入れていたことが分かりますね。グリフィスの授業はすべて英語で行われ、日本人の通訳を付けていたそうです。
グリフィスは福井で太郎の父と会ったり、由利公正や橋下左内の弟 橋本綱常(初代 日赤病院長)ら多くの知識人と交流しました。福井滞在は11か月でしたが、グリフィスの残したものは大きく、福井での教え子たちは明治の各界で活躍しました。
その後、明治7年(1874年)に東京へ行ってから、激務がたたり、体調を崩したグリフィスは日本を離れます。アメリカへ戻って牧師をしていたグリフィスですが、福井のことを忘れることはありませんでした。そして日本に関する本を次々と執筆、ベストセラーになり、世界に日本や日本人のことを知らしめることとなりました。
グリフィスは、日本を離れて55年が経った昭和元年(1926年)、日本政府の招きで再来日します。既に83歳になっていましたが、福井も訪れて、何と1500人もの人々が出迎えました。福井の町は変わったけれど、人々のやさしさは変わっていないとグリフィスは感じたと言います。翌年にかけての日本滞在中、250回もの講演をして各地を回り、日米友好と平和を強く訴えました。その後、残念ながら日米は戦争の道へと突き進んでいくことになるのですが、日米が戦争に入ったことを知ることなく、グリフィスはアメリカへ戻った翌年の昭和3年(1928年)、84歳で亡くなりました。今年はグリフィスが初来日してから150周年に当たります。当時、グリフィスが日本中を回って講演で語った熱い思いは今も通じる内容だと改めて感じます。日本研究の第一人者グリフィスの原点、それは福井の人々との温かい心のふれあいだったのです。(H.S)
W.E.グリフィス
福井市にあるグリフィス記念館
グリフィスが住んでいた家を復元しています
記念館前にある日時計
グリフィスの死後、サラ夫人によって福井市に贈られた日時計が太平洋戦争後、逸失したため、残された資料を基に複製したもの