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福井で最初の海外留学生・日下部太郎

2020年05月31日

出来事

地元福井のFBCテレビ開局60周年記念番組「福井を愛した男グリフィス」を見ました。再現ドラマになっており、講談師 一龍斎春水さんの語りも素晴らしく、中身の濃い、とても見応えのある番組でした。番組に登場するグリフィスと日下部太郎については、名前こそ知っていたものの、二人がどんな人生を歩んだのかよく知らなかったので、この番組で初めて詳しく知って感動しました。

 

日下部太郎は弘化2年(1845年)、福井市江戸町(今の宝永4丁目)で生まれました。安政2年(1856年)、福井藩に新しい学校「明道館」が開校。日下部太郎は頭脳明晰の誉れ高く、通常15歳で入学するところ13歳で入学します。そして慶応3年(1867年)、太郎が福井藩初の海外留学生として渡ったのがアメリカ・ニューブランズウィック市にあるラトガース大学でした。そのラトガース大学で先輩にあたるグリフィスにラテン語の個人授業を受けたのが二人の出会いです。太郎はグリフィスに、福井がどれほど良いところかを自慢していました。

 

一方、当時のアメリカの物価は高く、日本からの少ない仕送りで生活する太郎は食費を切り詰め、寝る間も惜しんで寒い部屋で勉強し続ける日々。太郎はついに肺結核にかかってしまいます。そして明治3年(1870年)4月、太郎は卒業を目前にしてニューブランズウィックの地でわずか24歳という短い生涯を終えたのです。

 

太郎の葬儀のため大学は休みとなり、葬儀の営まれた教会には教授はじめ学生、友人たち、そして悲しみに打ちひしがれるグリフィスの姿もありました。遠い異国の地で十分な栄養もとれず、病に倒れた太郎の心細さ、無念さはいかばかりだったでしょう。哀れでなりません。

 

つまり、福井では幕末から明治の初めにかけて、橋本左内(1859年、25歳で刑死)と日下部太郎という、稀に見る優秀な若者を二人も失っていたのです。彼らがもし生きていたらと思わずにはいられません。

 

さて、太郎の死から数か月たったある日、グリフィスの元に福井藩から一通の手紙が届きました。続きは来週のブログでご紹介したいと思います。(H.S)

 


日下部太郎(福井市立郷土歴史博物館HPより)

 


福井市内を流れる足羽川の堤防に立つグリフィスと太郎の銅像