橋本左内が15歳で記した人生の自覚『啓発録』
2018年07月12日
『啓発録』は橋本左内が書いた以下五か条からなる自分の生き方への指針。
現代にも通じる教えとして今も人々に読み継がれています。
一. 稚心を去る(子どもじみた甘えを捨てる)
一. 気を振う (やる気を起こす)
一. 志を立てる(一度決心したらその決心を貫き通す)
一. 学に勉める(すぐれた人物の立派な行いを習い、自らも実行する)
一. 交友を択ぶ(益友と損友を見極めて選び、益友を何をおいても大切にする)
ブログの参考にさせてもらった石川洋氏による著書
福井生まれの橋本左内は、15歳で大阪に出て適塾で緒方洪庵に師事し、蘭方医学を学びます。
いつの頃からか適塾では、左内が夜中にふと姿を消すことが噂になっていました。
誰かに誘惑でもされたかという話まで出たそうですが、実は左内は天満橋の下の小屋に住む貧しい病人たちを診ていたのです。
その左内が15歳の時に魂からの強い決意で綴った『啓発録』。
25歳で刑死する直前、左内は『啓発録』に改めて目を通し、「一字の訂正も必要なし」と記したそう
です。そしてその18年後、西郷隆盛が城山で戦死した際、最後まで肌身離さなかった手文庫の中には
左内からの手紙がありました。
【左内 辞世の句 訳文】
主君春嶽の無実を晴らせず、痛恨限りなし
牢に伏せれば心痛み悲しみ、顔を上げれば物思いに沈む
昨夜は江戸に初めて霜降るも
しぼまぬ私の心を誰か知るものであろうか
いよいよ斬首となる時、左内は嗚咽を漏らしたと言います。それは悲しみや恐怖からではなく、ここで自分が死んだら、福井藩は、日本はどうなるのか見届けることができない、もう何の役に立つことも
できない、という悔しさからの涙でした。
25歳の見識ある、飛び抜けて優秀な若者が辞世の句を詠むことになるなど、もう決してあってはならないこと。もし左内が極刑を免れて若きリーダーとして活躍できたなら、福井や日本の歴史は少し違っていたのかもしれません。この福井という地に確かに存在した橋本左内という傑出した人物の生き様を
忘れたくないと思います。(H.S)
こちらはGENが新しく制作した動画「幕末の俊才・橋本左内 ゆかりの地を訪ねて」です。