『雁の寺』と水上勉の生い立ち
2016年12月04日
わが福井県を代表する作家、水上勉の名前はもちろん知っていましたが、
恥ずかしながら作品をちゃんと読んだことはありませんでした。
ところが当サイトGENで彼にちなんだ動画「水上勉を読んで京都を歩く」を制作することになり、
何冊か読んでみて、すっかり魅了されました。
そんな水上文学、今回は直木賞を受賞した『雁の寺』についてご紹介します。
映像が浮かぶような描写や、物語のクライマックスとも言える場面の斬新な構想については
すでに語り尽くされていると思いますが、主人公慈念の姿を借りて語られた水上勉の生い立ちと、
それが水上勉という作家に与えた影響にも興味は尽きることがありません。
水上勉は京都の寺に小僧として預けられることになり、九歳で故郷の若狭を出ます。
勉の家は、区長から村歩きという仕事を仰せつかい十二銭もらう、そんな貧しい家だったそうです。
それにしても、まだまだ母に甘えたいであろう、たった九歳の子が一人遠くの見知らぬ寺へ行くために雪道を歩いていく。そんな光景を思い浮かべるとただただ不憫でなりません。その時の勉は何を思っていたのでしょう。今はそんな子どもなんていないだろうけど、当時は勉みたいな境遇の子が意外といたのかもしれません。勉が汽車の中から改札口を見るとそこにはたたずむ母の姿がありました。
読みながら、フロイトの考え方からの「偉大な表現者は、子どもの頃の親子関係に何らかの問題を抱えていた」という精神分析者 岸田秀さんの言葉が頭をよぎります。太宰治しかり。
司修著『雁の寺の真実』や自身の全集のあとがきで、水上勉はこんなことを言っています。
「苦境ばかりで、苦境を乗り切るということが私は語れないんですよ。どうにもなりません。」
「『雁の寺』にも書きましたけど、和尚は私を起こすのに紐を私の腕にくくって引っ張るんです。
それは辛かったです。」
「私の生涯の、九歳から十九歳までの、大事な精神形成期に、寺から教えられた人間苦の問題を、そうたやすく消しゴムで消すふうには忘れ去れないのです。一生、その部分は私につきまとい、死ぬ時の棺にまで入るにちがいありません。」
『雁の寺の真実』にはGENにもインタビュー出演していただいた京都・相国寺の有馬頼底管長が
「水上文学と禅」と題して寄稿しています。その中から一部引用したいと思います。
「水上さんとは世代は違うが、寺に入るということで似ているところがありました。
母親に対する思いも共通しています。水上さんもお母さんをすごく慕っている。私もそうです。
水上さんはよくご自身のことを、破戒坊主と言われますね。けれどもあれでいいんです。
あの人がもし禅の道へまっすぐ進まれていたら、それこそ超一流の禅僧になっているはずなんですね。作家として超一流になられたのはそれでいいと言いながら、やはり私は禅僧として生きていただき
たかった。もしあの方がそういう道を歩まれたなら、おそらく禅宗界を変えていたかもわからないですよ。それだけの人やと思います。」
『雁の寺』の和尚のモデルである相国寺塔頭瑞春院(上記写真)の山盛松庵和尚が、京都・河原町松原の路上で交通事故に遭って亡くなったのは昭和三十四年のことでした。
『雁の寺』はこの和尚の死後、昭和三十六年に発表され、同年直木賞を受賞。(H.S)